「勉強しよう」と思いすぎ
ここ数年は猫ちゃんみたいな生活を送っているのに、なんだか息苦しい。
なにかに追い立てられている気がする。
これは僕が「勉強しよう」と思いすぎだからなのでは、と思えてきた。
僕の最終的な目標は100000億円を貯めて、細々と食べていくこと。
それをあと10年だか15年くらいで達成したいと思っている。
そのためにはいろんなことを知る、勉強する必要があるし、やる必要もある。
だからなのか読む本は自己啓発系が多いし、家事を効率的にするには……心の健康を保つには……といったものばかり読んでいる。
小説も漫画もあまり読んでいない。
要するに息抜きをしていないのだ。
小説や漫画は昔からあまり触れてこなかったのもあるけど、「これは息苦しくもなるわな」と感じた。
僕はジャンプを買ったことがない。
なぜなら「お金を貯めなければならない」と思い込んでいたから。
小学生の頃には、コロコロコミックを親に買ってもらっていたこともあった。
しかしあまりにも貯金がしたすぎて「コロコロを買わない代わりに、そのお金をくれ」と親に頼んだほどだった。
だから小4で漫画雑誌を買わなくなったし、読んでもいない。
読んでもいないので興味も湧かず、友達に借りることもなく(そもそも貸し借りさえしなかった)、そのため会話に混ざることもなかった。
そうして人と交わらないうちに少しずつ人が怖くなり、だから「お金を貯めてひっそりと暮らす」ことが人生の目的へと変わっていった。
そんな気がする。
自分のことがやっと分かってきた気がする。
ただ、猫ちゃんみたいな生活を送っているうちに「人はそこまで怖くない……かも」とも思えてきた。
まだまだ怖いのは確かだけど、荷物を受け取りに玄関のドアを開けるときに「こにゃにゃちわ~」と言うだけでも、相手の反応が違う。
そういう小さな驚きがここ数年で何度もあった。
傷つくことを言われるのはたまにあって、もれなくメッチャ傷つく。
だけどよくよくその場面を思い返してみると、相手はコミュニケーションの一環として、傷つけようと思わずに言っただけだったりすることが分かる。
つまりまったくの善意。
もちろん誰かひとりでも傷つく人がいる限り、その発言は手放しでほめられるものではない。
けれども相手に傷つけようとする意思はないし、そもそも言葉は捉え方しだいで意味あいが変わる。
だからもう、怖いことにだけ目を向けることをやめて、人間との交流で得られる楽しさに頭を持っていきたいとも思う。
(ここらへんは認知行動療法という、考え方を治療する方法から学んだものだ。ちなみに認知行動療法は健康保険が使える立派な医療だ)
まぁ、怖いものは怖いんだけれど。
僕は何十年もかけて、自分の中に「ひとはこわい」という気持ちを刻み続けてきた。
しかし最近は「そこまででもない、かもしれない」と思えてきた。
人が怖いからこそ隠居という目標を立て、そのために人生を設計したきたのだけれども、その前提がほんの少しずつ変わってきた気がするのだ。
しかも、そうして設計された人生が息苦しいときた。
さぁ、どうしようか……。